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テスティモニー 米田ひろしの証文 2/4 -アメリカへ留学-

 そんな生活が2年くらい続いて鬱状態が軽い時などに少しづつ表に出ていけるようになりました。近所の人にも、もう充分自分の状態を知られていたので開き 直るような気持ちになっていたと思います。リハビリも兼ねていろいろとアルバイトも始めました。でも周期的に来る鬱のために休み勝ちになり長続きしません でした。自信がなくてすぐに逃げよう逃げようとしてしまうのです。いらいらして家では特に母親に対して暴力をふるうようになっていました。物にもあたるよ うになりました。今でも私の部屋の壁や扉には当時の傷や穴が残っています。

 すすめてくれる人がいて大学検定試験に挑戦しました。こちらの方は幸いにも2年ですべて合格することができました。くじけながらも大検の勉強を続けてい た時に英語に興味を持ち始め、英語が喋れるようになりたいと思うようになりました。私は基本的に体育会系の思考の持ち主で、ひとつの目標に向かって邁進し ていくタイプです。野球をあきらめてから数年間ポッカリと心に穴が空いてしまった状態でしたから英語を習得したいという気持ちが久し振りに自分を前向きに してくれたのです。大検合格がちょっぴり自信を与えてくれていたのかもしれません。アメリカに行きたいと思うようになりました。しゃべる英語をものにした いと思うようになりました。でも当時の私は日本でもちゃんと生活ができていないわけです。相変わらず鬱に苦しんでいましたし文化も生活環境も違う海外に 行って生活ができるのか?周りの人も賛成しませんでしたし自分も正直なところ自信ありませんでした。でももう私は二十歳になっていました。あせりもありま したし今の状況から逃げ出したいという強い思いもあってある留学機関を頼ってアメリカに渡ることにしました。

america アメリカでの生活が始まりました。最初はワシントン州のレイシーという所にいました。日本から逃げ出してきたものの私はどうしてもアメリカでの生活にな じめないでいました。(分ってくれるだろう。分ってくれるはずだ。こんなに留学生がしんどい思いをしているのだから。) だだの甘えでしかないのですが、 どうしても自分から人に関わっていくことができずにいて、これは英語以上の問題でした。アメリカにいて自分が外国人であることを忘れていたわけではないの ですがどうしても相手に依存してしまうのです。アメリカは自分にとって 以心伝心 どころか 言わないものは聞こえない。の世界でした。自分の意志をはっきり主張しないと中々やっていけないものがありました。このままではダメだと思いました。アメ リカまで来た意味がなくなってしまうと思い、自分なりに頑張ってみました。お喋りになってみたり、無理に明るくふるまってみたりと自分を出そう出そうと日 々自分を変える努力をしていたのですが、これは自分が想像する以上に精神的に大変なことでした。授業が終って寮の部屋に帰るとぐったり疲れきってしまって もう何もできない状態でした。次の日の朝には無理にでも気分を高揚させて学校に行って明るい自分を演じ、帰ってまたぐったりと寝込むの繰り返し。自分でも 躁鬱のアップダウンが激しくなっていくのが分りました。3ヶ月が過ぎた頃、ある日学校から帰って疲れ切って鬱に入りこんだ瞬間からその鬱状態から抜け出せ なくなっていました。それまではまだアップダウンがあったのにずっと鬱状態が続くようになっていました。自分の内面にもいろいろなものが溜まってくるのが 分りました。体も疲れきってしまって授業も休むようになって鬱々とした日々を送っていました。そんな状態で2ヶ月目くらいに‘切れるという状態を経験して しまいました。自分の中でプチンというような音がした気がしてそこから記憶がなくなってしまいました。自分では覚えていないのですが無意識の中で自分が何 をしていたかというと、錯乱状態になった自分が学校のトイレで鏡の前に立って首を切ろうとしていたそうです。異変に気づいた学校のスタッフに見つかってあ とは取り押さえられて鉄格子付きパトカーを呼ばれました。そのパトカーで精神病院に強制入院させられてしまいました。検査の結果、鬱の状態が悪いというこ とで入院することになりました。しかししばらくするとその入院生活も続けられなくなってしまいました。精神的な病に保険がきかなかったこともあったと思い ますが、今後入院生活を続けていくのに1日800ドルもの入院費が必要になってくることを知らされました。とても支払える額ではなかったので、その病院は 1度入ったらでられないと言われていた病院だったのですが、私が日本に帰るという条件で病院から出ることができました。→続き 「聖書との出会い」